今回のパリの事件に接して
SNSが発達した現在、こういうテロと呼ばれる事件があると色々な方の色々な反応が目に入ってくるので、少し書いておこうと思います。
Amazonの今日のトップページは以下の形になっていました。
これをするなら、Amazon, Google, Facebook,報道機関が連帯して、世界中のテロ事件や武力攻撃を監視して、何か事件が起きた日にはその国の旗と場所を掲載してほしい。
そうすれば、国旗が掲載されない日は、少なくともそういう事件が報道機関が知る限りなかった日だと我々は心おだやかに暮らせます。
パリには知り合いも多いので今回の事件に心が傷みますが、それよりも我々が知らされていないところでどれだけの悲惨なことが起きているのか、それを知らないことにより心が傷みます。
今回は自分も自分の言葉で最低限何か書かなければと思い、昨日、今日といくつかFacebookに投稿しました。まとめる時間はないのですが、その投稿をそのままですが、以下にまとめました。
今回のような事件に対する報道、SNSでの反応に接するたびに思うことがあり、今回は自分の言葉で少し書いておこうと思い、昨日いくつか投稿しました。
自分に何ができるのか、何ができているのか自問自答する日々です。たとえば、先日の米軍の無人機攻撃による「ジハーディ・ジョン」殺害をほぼ確信という記事に対してどういう批判的報道がなされたのか?
「暴力の連鎖からは何も解決しない」と自分で書きながら、では、ハイテク化する軍事産業がなくなったら世界経済に(つまり自分たちの生活に間接的に)どういう影響があるのかについて無知な自分を恥じています。
何年か前に仕事で一度だけボンベイに行ったことがありますが、その時は、ショッピングセンターに入るにも手荷物検査がありました。それだけ、テロの危険性があるとともに、逆に警備員などの雇用もそこから生まれている等々、いろいろなことを考えました。
1980年代、パリで自分もいた事のある場所で爆弾テロが起きたり、1992、3年にロンドンのシティで爆弾テロがあったときには、そこから数キロ離れたところの大学院のフラットに住んでいたのですが、窓ガラスが揺れました。
今こそ、物事の本質を一人ひとりが試すことが問われているのではないかと思います。
ニュースフィード
暴力の連鎖により被害を受けた事件は欧米主要メディアで大きく報道されるが、欧米側の無人機等による報復としての殺害はどう報道されているのだろうか。こういう時代だからこそ、12月12日公開のモフセン・マフマルバフ監督のPresident(邦題:独裁者と小さな孫」)のエンディングに希望が